岡真理『ガザに地下鉄が走る日』みすず書房、2018年

二度と忘却しないために

今年の夏に購入して、しばらく積ん読状態だった本書。なんとしても今読まなければ、と急いでページをめくり始めた。
10月7日、ガザでの武力衝突が始まったからだ。

始まった、と書いたが、それはもうずっと前から始まっていて、ただ世界がその現状に目を(再度)向けたにすぎない。
本書には、イスラエルによる完全な封鎖と支配、度重なる空爆により、人々の土地、生活、文化、命がずたずたにされていく様子が鮮明に描かれている。
7日以降、毎日テレビやSNSで見る光景が文字となり、映像ではカットされたり伝わらない、人々の死や負傷の惨状、死臭、痛み、抑圧による怒りや絶望が目前に立ち上がる。
私が映像で見ているのはほんの一部であり、ガザの人々の痛みは想像をはるかに超えたところにあるのだと知る。
しかしそれ以上に、私を茫然とさせるのは、本書が今から7年前の2018年に刊行されたという事実であり、さらにガザの人々は難民となった1948年以降80年近くも、その痛みを負い続けているという事実だ。
この惨状は今に限った話ではなく、過去からずっと続いてきているのだ。

国を持たざる難民とは「ノーマン(No Man)」なのだ。国民国家の空隙に落ち込んだノーマン。彼らは人権とも、彼らを守る法とも無縁だ。「法」も「人権」も、それは「人間(マン)」、すなわち「国民」の特権なのだということ。国民でないものは「人間」ではない、それが、普遍的人権を謳うこの世界が遂行的(パフォーマティブ)に表明しているまごうことなき事実であり、その事実が(中略)露わになるのが、ここノーマンズランドだ。(P.17)

ノーマンとされたパレスチナ人を国際社会は無視し続けてきた。

私たちは無関係なのだろうか、罪はないのだろうか。ミサイルや白燐弾で殺す代わりに、私たちは、ガザを関心の埒外に打ち棄てることで、日々、殺しているのではないか。(P.72)

報道カメラに向かって、または自らのSNSで、懸命に窮状を訴えているパレスチナ人ジャーナリスト、医師、市民の声を見聞きするたびに、この言葉がグサッグサッと突き刺さる。

無関係であってはならない、と考えるだけならまだよかったかもしれない。
「占領の存在を前提に、占領によって生を破壊され続けるパレスチナ人が占領下でも生活を維持できるよう開発援助することで、むしろ占領継続の共犯者となっている」(P.91)と著者は述べる。
以前は開発援助業界にいた私。共犯者だった。全然無関係ではなかった。

本書は終盤で、文学や芸術の力がパレスチナ人がパレスチナ人であるための支えとなっているという。
本書タイトルにもある「ガザに地下鉄」というアート作品は、パレスチナ、ガザの人々の希望だ。
夢物語だが、それが本当に実現したら。それを実現しようと、国際社会が少しでも動き出したら。夢物語としてあきらめないでいる方法があるとしたら。

「忘却が次の虐殺を準備する」(P.239)。70年間で戦争・空爆は繰り返されてきた。今回の戦争も、私たちがパレスチナを忘却してきた結果といえる。
忘却しないために、パレスチナの人々の生は、確かにそこにあるのだと、思い続けるために。
本書を読んでここで発信(記録)することにも、何らかの意味があるのではないだろうか。


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