AIの時代に訳者ができること

最近、どのセミナーや勉強会を覗いても、AIの話題が必ず出てくる。AIに翻訳業は食われてしまうのか、AI時代に生き残るためにはどうすべきか、などなど。

AIにまかせれば、翻訳を依頼する側にとっては、時間もお金も節約できるだろうし、もっと安く早くたくさんの書籍が出回るかもしれない。そういう時代を見越して、AIに負けない訳文を作るとか、翻訳以外のスキル(企画とか執筆業とか)を伸ばすよう、今から対策すべきという声を聞く。他方で、AIにはまだまだ商品になるような質の翻訳はできないから、もうしばらくは食いぶちを奪われることはない、という声も聞く。どちらの意見も納得するし、AIの未来に備えてAIに負けない、もしくは共生する生き方を身につけておくのは大事なことだろう。

それでも、ふと思うのだ。読者は、AIの作った文章を読みたいと思うだろうか? AIの書く文章で、感動したいだろうか?

絵や映画をみて、誰かの文章を読んで、あるいは誰かのスピーチを聞いて、心が動くのは、そこに見えているものや言葉の内容そのものに感動するからだけではない。その作品を生み出したいという作り手の思いが伝わるからだ。今、この世に届けたいメッセージが、その作り手の熱量とともに、こちらに向けられているからだ。すごく細かい線描や繊細なタッチといった技量に感嘆し、その作品に費やされた時間やコストを想像し、技量にいたるまでに鍛錬を重ねた作り手の人生に思いを巡らせると、感動はさらに増幅する。

翻訳も(少なくとも出版翻訳や映像翻訳の分野では)同じことが言えるのではないだろうか。何のためにその作品を翻訳して日本の読者に伝えるのかというと、突き詰めれば読者を感動させたい、なんらかの心を震わす体験をしてもらいたいからだ。著者の作品には熱量がある。訳者はそれをできるかぎり伝えようとする。本を訳していると、著者の声が聞こえることがある。ほら、おもしろいでしょ、これ笑えるよな、こんなのありえない、なんとかしなくちゃ……。そういった、文字にはなっていなくても、ノリやパッション、悲哀が感じられるときがある。訳者はその思いを取りこぼすことなく、訳文に反映させようと工夫する。

著者の熱量を伝えるのは訳文だけではない。訳者あとがきやSNS、読書会、知人との会話の中で、著者の思いや作品自体を伝えることができる。訳者は、訳している最中は著者の体験を追体験しているし、訳し終えたあとは著者のいちばんの理解者になっている。だから、宣伝にも力が入る。訳者は、原文を翻訳した日本語に載せきれない著者の思いを、翻訳書以外の手段で日本の読者に届けることができる。

この、熱のこもった訳文、商品となった本と、同等の熱量をAI翻訳は込められるのだろうか。あるいは、同等の熱量があると読者に思わせることがAIにはできるのか、私は疑問だ。一般の読者は、その翻訳がAIによって作られたのか、人間によって作られたのか、気にして読むことはないかもしれない。だが、本に対する作り手の思いやそれを広く届けたいという思いは、AIによる翻訳本にはのってこないはずだ。私は、こうした熱量のこもった本を読みたいと思う。AIの時代に、熱量をどれだけ訳文にこめ、どれだけ読者に伝播できるかを考えていきたい。


投稿日

カテゴリー:

投稿者:

タグ:

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です