松村圭一郎『小さき者たちの』ミシマ社、2023年

自分が立つ「今」の基盤となった歴史をまっすぐ見つめる

お、この人、アフリカ研究の人だよな、と手に取った。ページをぱらぱらとめくると、「水俣」という文字が目に入る。どういうこと?

エチオピアをフィールドにする人類学者が、故郷の熊本、水俣の史料、記録を読みおこし、生まれ育った地とはどんな場所なのかを明らかにする。

タイトルの「小さき者たち」とは、水俣病患者のことだ。国、工場を建てたとなった日本窒素肥料株式会社(チッソ)、自治体やコミュニティから、差別や迫害を受け、存在しないものとされてきた人々のことである。またそうした人々の実態を知り、声を届けようと奮闘する、医師、作家、映画監督らも含まれるだろう。

なかでも強い印象を放っていたのが、川本輝夫氏の言葉であり、半生だった。水俣病患者だが、患者会などに属して団体交渉をすることから外れ、独自にチッソ本社に座り込みを行った。チッソ対患者、国対患者、ではなく、生身の顔と名前、そしてその生命を背負う一人の人間として、行動したのだ。そして世界を変えようとした。

当時の水俣地域の貧しい暮らし、そして壮絶な水俣病患者としての生き方を語るのは川本氏だけではない。さまざまな人々の声が、その記録から立ち上がる。今の日本がここまで発展してこれたのは、政府や巨大企業が人的・環境的被害を省みずに産業開発を進めてきたからであるが、それを築いたのはほかでもない、川本氏含む、市井の人々である。だが私たちは、彼らの歴史を、生きた人生を知っていただろうか。知ろうとしていただろうか。

本書ではいくつか、エチオピアの人々や風景の写真が挿入されている。最初は水俣の話なのになぜエチオピアの写真なんだろうと感じるのだが、ページをめくるにつれ、その意図がだんだんとわかってくる。エチオピアは最貧国のひとつであり、世界中から物的・人的・財政的開発援助を受けている国だ。国際的な後押しにより、大きく変わろうとしている国だ。だが、そういった「国際的な」開発像は、エチオピアの暮らしにひずみを生んでいないだろうか。市井の人々の声を、私たちは聞いているだろうか。

華々しい開発政策の足元で、人々はどのような暮らしをし、開発政策の恩恵を、あるいは害悪を、どのように受けているのだろうか。水俣の記録と、遠くの地の人々を重ね合わせる。そうした想像する力を、本書はたしかに与えてくれた。


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