感情の主権を取り戻せ
アメリカ人で、社会主義体制後の東ヨーロッパの庶民の生活を長らく研究してきた著者。男女平等が社会に根付き、女性が暮らしやすかったのは社会主義だとし、資本主義・自由主義経済がいかに女性を搾取してきたか、女性の自由を奪ってきたかを説いている。
本書でもっともインパクトが強く読者を訴求するのはそのタイトルにあるだろう。本論でも登場する「セックス経済理論」。これもかなりのパワーワードだ。どういう理論かというと、「女性が性という財産を持ち、それを売るかどうかを選択できる」とする理論で、それは性に貨幣価値を持たせる、つまり性を商品化する資本主義でのみ成り立つというものだ。ここでは、金銭的な利益を追求するために、女性を嫌々セックス(プライベート、産業両方で)させることになってしまう。裏返せば、金銭的利益を追求する必要がなく(必需品が国からもらえる)、またお金を稼ぐ手段が多ければ(職業の選択の自由が保障されている)、性の節約も安売りもする必要がないということだ。著者は、ここから、社会主義は男女が平等に働き生活できる社会であり、セックスに関してその値打ちや交換のことなど考えなくてよいのだという。そして純粋に愛でもってがセックスを楽しむことができるという。実際に、東ドイツのほうが西ドイツよりも女性のセックス満足度が抜群に高いというデータも示されている。
この「セックス」を切り口に、資本主義をぶったぎる論理展開はわかりやすく、開眼ものだ。著者は、だからといって、資本主義から社会主義に転換すべきだ、とは述べていない。資本主義の強大さは否定できないし、そこから人々をいまさら切り離すことはできない。だが、資本主義から自分の(とくに女性の)価値を、「感情の主権」を取り戻す必要があると主張する。
感情の主権。個々人の意思や選択に主権があるべきだ、そう言い換えられると思う。今の日本社会では、こうした感情の主権は保障されているだろうか。政府が国民の感情を置き去りにして、いやむしろ、国民が感情を持つ主体だということを無視しているのではないかと思うほどにないがしろにしているのではないだろうか。政治だけでなく、経済社会もそうだ。個々人の感情をないがしろにして、「会社の駒」を大量生産し、様々な事情で(一時的にでも)「駒」になれない人はそのレールからはじき出す。本書では、「女性は出産・育児があって仕事にコミットできない」ものだとして採用をためらう「統計的差別」や、旧東ドイツの「出産ストライキ」についても述べている。今の日本と重ねざるを得ない。
ところで、「セックス経済理論」で語られるセックスと、著者のいう純粋に愛で成り立つセックスは、それぞれ男からの目線のセックス、女からの目線のセックスとも読めそうだ。「女は金に困ったら風俗すればいい」なんて言説は男からされるものだが、この「セックス経済理論」だとすると合点がいく(納得はしないが)。女性が感情の主権を取り戻すこと。そのためには、職業を自由に選択できること。セックスという非常に個人的な話から、壮大な社会体制にまで目を向けることができた。
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